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サダナリデラックスブログ

第76回-国民的俳優と映画の国際性-その2

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面白いと思うのは韓国人女優、ペ・ドゥナの活動だ。彼女を最初に観たのはかなり古く、もう15年前、2003年だった。ポン・ジュノ監督の長篇デビュー作『ほえる犬は噛まない』を日本公開早々に観に行き、当時二十歳ちょっとだったペ・ドゥナを知った。あの映画、ペ・ドゥナも良かったがそれ以上にうだつの上がらない大学の非常勤講師を演じたイ・ソンジェの印象が強烈で、「かわいい女優がいるな」くらいの印象だった(イ・ソンジェがブラインドを閉めるラストシーンは秀逸)。

ペ・ドゥナを凄いなと思ったのはその次の『子猫をお願い』(日本公開2004年)だ。映画自体も傑作。ペ・ドゥナも骨のある演技で実に良かった。当時世界的に巻き起こっていたガーリー・ムーヴィーに対する韓国からの完璧な回答。また舞台が空港と港の町、仁川というのも良かった。私の出身地である蒲田、羽田付近に通じる空気感があり…というようなレビューを当時ある雑誌に執筆した。

そして彼女は海外の映画に出演することになる。2005年の日本映画『リンダ・リンダ・リンダ』、2009年に同じく邦画の『空気人形』、そして2013年には4ヶ国合作の『クラウド・アトラス』。
いずれも映画館で観たが、なんというか、映像作家ならば「存分に使ってみたい!」というキャラクターなのだろう。その魅力は何にでもなれる素材としての素晴らしさだと見た。日本に留学した女子高生役もあれば魂を授かってしまったラブドールなんて難役にもハマル。『クラウド・アトラス』では22世紀の女神を演じ、その直後、2015年の『私の少女』では化粧ッ気のない田舎の婦人警官まで(『グエムル』の時のアーチェリー選手役も良かった)。
実は彼女は身長が170cmを超えており、スタイルも抜群。先頭の写真はヴォーグ・コリアの表紙だが、Louis Vuittonのモデルを務めたときの写真も載せてしまおう。

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ただ正直なところ海外作品ではまだ決定的な作品には出会っていないような気もする。いま挙げた中では『子猫をお願い』と『空気人形』が良かったが、いやいや、まだまだ。個人的にはスパイク・ジョーンズかソフィア・コッポラあたりの映画に出演して欲しいとも。

今回、このブログを書くためにかなりの量のペ・ドゥナの写真を見たが、雰囲気的に水カンのコムアイや市川実日子に似ていると思った。「こんなに世界中から声のかかる女優がいるなんて韓国映画界は羨ましいな」と思ったが、ペ・ドゥナと市川実日子は年齢が1つしか違わない(ペ・ドゥナがひとつ下)。身長やスタイルもほぼ同じだ。ペ・ドゥナがあそこまで重用されるならば、市川実日子も…。

第75回-国民的俳優と映画の国際性-その1

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音楽関係の記事が続いたので久々に映画関係。

色々な国の映画を観ていて痛感するのが、「どんな国にも名監督、名優がいるなぁ」ということだ。アタリマエのことだが、アメリカの娯楽映画と少々の邦画にばかり漬かっているとうっかり忘れてしまう。そして名監督は国際的な映画祭で名誉ある賞を受賞し、名優は他国の映画に客演し、強烈な印象を残す。

それを痛感したのは20年以上前に観た『史上最大の作戦』('62)だった。ノルマンディ上陸作戦を描いたこの映画、当然のごとく英米独仏が入り乱れた人間ドラマになる。米軍にはジョン・ウェイン、ヘンリー・フォンダ、ロバート・ミッチャムが、英軍にはショーン・コネリーがいる。終戦から17年しか経っていないこの時に、アメリカ映画の大作でドイツ軍を誰が? ドイツ陸軍西部軍参謀総長を演じたのは名優クルト・ユルゲンスであった。ハリウッドにジョン・ウェインがいれば、ドイツの映画界にはクルト・ユルゲンスがいる。納得のキャスティング。この二大名優の共演には感服した。

クルト・ユルゲンスはミュンヘン郊外で生まれたドイツ人だったが、大戦中はナチス批判を理由にハンガリーの強制収容所に入れられていたそうだ。大戦後に解放されオーストリア国籍を得ている。もっとも『史上最大の作戦』で彼を語るのは片手落ちだろう。その5年前に、潜水艦映画の傑作『眼下の敵』('57)演じた独軍Uボート艦長こそユンゲルスの名前を世界に知らしめた名演。この時の米軍駆逐艦長役はロバート・ミッチャムであった。

戦後の戦争映画の名作を語るような文章になってしまったが、このように国際的なシナリオ、配役には、ちゃんとハマリ役となるその国の名優がいて、名演をフィルムに焼き付ける。

我が日本にも戦前の数々のハリウッド映画、日独合作の『新しき土』('37)やサミュエル・フラーの奇作『東京暗黒街・竹の家』('55)、『戦場にかける橋』('57)に出演した早川雪洲がいる。'49年の『TOKYO JOE』ではハンフリー・ボガードと共演。そのタイトルはブライアン・フェリーの有名曲になり、フュージョン時代の渡辺香津美(g)と坂本龍一(key)がカヴァーもした。

いつ終わるんだろう? この文章(苦笑)。本当はアラブ圏やヨーロッパ、アジアのことが書きたいのだが…とりあえずここまで。次回に続く。

第74回-テクノ御三家-その3・プラスチックスナンバーの記憶

1980~81年当時、プラスチックスの曲は自室で、ラジカセで聴いていた。中学3年だった80年はモノラル(SONY スカイセンサー5950)で、81年4月以降は高校入学祝いで買って貰ったステレオラジカセ(SONY METAL365)で。

時間は深夜が多かったように思う。なぜか夜明け以降、4時、5時台の記憶が多い。既に夜は明けているが周囲は何の物音もせず、地球上にひとりだけ取り残されてしまったような状況で、延々とプラスチックスを聴いていた…実際はほんの数回なのかもしれないが…いや、かなり繰り返しこうやって聴いていたように思う。

それから40年近くが経ち、いま強烈に思い出されるのは有名かつキッチュな「COPY」や「ROBOT」ではなく、LPで言えばB面後半の「Deluxe」や「Complex」、あるいはA面の(これまたあまり話題にならない)「Can I Help Me?」だ。
当時は「ピコピコなプラスチックスのアルバムが、なんでこんなに暗い雰囲気で終わるのだろう?」と思っていたが、今になって考えれば完璧なまでのブリティッシュ・インヴェンション~西海岸ポップス、ソフトロックのオマージュではないか。

例えばこの「Can I Help Me?」とホリーズの「バスストップ」を並べてみる。





いやもう何でもいい。大好きなThe Move「旗を振って汽車を止めろ」と並べてもいい。



このシリアスなレトロ・ポップ感はセカンドアルバムの『ORIGATO PLASTICO』('81)で頂点を極める。これこそ今、一番聴き直したい一枚だ。たとえばこの「PEACE」-



センカンド収録の「CARDS」に至ってはもはやテクノではない。半分は60年代ロックへのオマージュ(70年代前半、デヴィッド・ボウイのグラム~ソウルテイストも入っている?)、半分は親交のあったトーキング・ヘッズに通じるエレクトリック・ファンクの表出だ。
もちろん中高生だった1980、81年当時からリアルタイムでこのようなことを考えていたわけではない。当時は漠然と「なんだか懐かしいような、物哀しいような曲だなぁ。でもジワーっといいなぁ」と考えていた。今になって「分析」すれば、このようなバックグラウンドがあったのではないかというわけだ。

実はプラスチックスはこのあとサード・アルバムのレコーディングを企画していた。しかしメンバーが持ち寄った新曲は、それぞれの指向が強く出すぎてバンドとしての統一感を欠いていたそうだ。そしてそれが解散の原因ともなった。

音楽史的にはこの後、チカトシのユニット"メロン"に行くのが正史だが、私は立花ハジメばかりを聴いていた。82年の『H』、83年の『Hm』、そして84年のソロから90年代まで。
たとえばハジメがヴォーカルをとっている上記の「PEACE」と、85年リリースの『太陽さん TAIYO-SUN』収録の「XP-41」を並べてみても良いだろう(たぶんつづく)。

第73回-テクノ御三家-その2・プラスチックスの特別さ



中西俊夫の早すぎる死去をきっかけに書き始めたテクノ御三家について。「プラスチックス派、ヒカシュー派、Pモデル派に分かれる。そしてそれが、幼いながらもその人の趣味や性格を表し、ひいてはその将来までも…」というお話しの第二回。

1979~80年のテクノポップ大流行まで、パンクが最も進んだ音楽だと思って聴いていたので、パンクとマシンを完璧にミックスしたP-MODELにもシビれた(中学生のナケナシの小遣いで「ヘルス・エンジェル」のドーナツ盤を買った。50歳を過ぎてもまだ持っている)、ニューウェイヴ的な奇抜さとイケナイものを聴いている感じではヒカシューのサウンドが群を抜いていた。ヒカシューにはかなりハマり、アルバムも買い続けてかなり後年にもライヴに行った。

しかし、しかしである。なんというか「俺が求めていたものはコレだッ!!」感、100、120、1000%のジャストミート感があったのはプラスチックスだった。一体どこにシビレたのだろう?…。

まず何と言ってもそのサウンドのレトロ感だ。実際にモンキーズの「恋の終列車」や、ビートルズ武道館公演の前座でドリフターズが演奏した「ウェルカム・ビートルズ」のカヴァー(正しくは「ウェルカム・プラスチックス」)もやっていたが、オリジナル曲の多くが1960年代のエレキサウンドやブリティッシュ・インヴェンション、さらにはGSサウンドを彷彿とさせるもので、古い映画や深夜放送で聴くそうしたサウンドに狂っていた私は「アレをシンセでやってくれるバンドが登場した!」と狂喜した。

この中学生の狂喜は、実はプラスチックスのコンセプトそのものでもあった。かなり後年になってから立花ハジメのインタビューで知ったのだが、「60年代のロックに胸がキューンとしたあの感じを、今のセンスで再現するとどうなるか」が彼らのコンセプトだったそうだ。

もちろんレトロ感だけではない。その「音の良さ」にもシビれた。ヒカシューほか何組かのバンドがドラムレスで、ローランドのCR-78(コンピュリズム)というリズムマシンを使っていたが、この音が最もストレートに、魅力的に収録されていたのがプラスチックスではなかったか。
トシとハジメの60'sギターもイイ、佐久間正英のシンセ(JUPITER-4が多かった)もオルガンサウンドを多用しまくりで日本のGSのようだった。確かに「COPY」や「ROBOT」といった近未来を匂わせる曲もあったが、それも60年代の人々が描いたキッチュな未来像の音像化のように思える(←これはごく最近気付いた)。

デザイナーやスタイリストの兼業バンドであったので、アートワークやファッションも洗練されており、そして上で述べたレトロフューチャーなサウンド。「プラスチックスについて行けば、自分の望む音楽もファッションも、すべて実現できるのではないか」と、まるで取り込まれたようになってしまった1980年1月、中学2年の3学期であった(父親がドレメの教師をしていたのも関係があるのかもしれない。これもごく最近気がついた。プラスチックスはなんとな~く服飾系大学の学内の"アノ雰囲気"に通じるものがあった)。

しかしこの「読み」は概ねハズレではなく、その後数十年、彼らから広がる世界を追い続けることになる(つづく)。

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