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2013年05月

第32回-失われし巨匠・丸根賛太郎 天の巻

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これから2回、「丸根賛太郎」というあまり有名ではない映画監督をご紹介します。実は私が世界で最も愛する映画監督です。川島雄三研究家を名乗っておりますが、甲乙付けがたい。もしかしたら川島よりも好きかもしれない…。

文章は9年前の2004年に筑摩書房の「国語通信」という国語教員向けのネット上の電子ブックに掲載されたものですが、同社サイトのリニューアルで今は読むことが出来なくなってしまったので、ここに再掲します。ふと思い出して原稿を読むうちに、「これはみなさんにお伝えしたい!」と強く感じました。丸根を知って15年。ひとりでも多くの人に知ってほしい、観てほしいと心から願っている隠れた名監督です。

加筆、修正はせず文中の時間関係、執筆後の物故者などはすべて2004年当時のままとしました。少し長く、また国語教員向けで文章も堅いいですが、ではどうぞ。

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 日本映画に関する書籍の刊行がちょっとしたブームである。二〇〇三年に生誕一〇〇年、没後四十年を迎えた名匠・小津安二郎に関する本が特に目立ち、新刊、復刻、文庫化など昨年一年間で十冊近くが新たに書店に並んだ。しかし名匠、巨匠の類に限らず、『狂った果実』(一九五八年)で斬新なデビューを飾った中平康や、夭折の奇才・川島雄三など、知る人ぞ知る的な監督の研究本が―いずれも没後三十、四十年を経て―それぞれ数冊、立て続けに刊行されてもいる。
 それはそれでとても嬉しいことだが、こうなると逆に、あまりに情報の少ない監督が気にかかる。それはまるで現代の情報社会の中に埋没してしまったかのような印象を受ける。膨大な数の作品を残しながら、没年すらもはっきりしない「失われし巨匠」もいるのだ。例えばこの時代劇の異才、丸根賛太郎のように。

 丸根賛太郎、本名・赤祖父富雄は一九一四年、大正三年に山口県に生まれた。父は職業軍人だったが、陸軍主計大尉のとき食料納入業者の不正を粛清すべしと主張し軍幹部と対立。嫌気がさして自らその職を辞してしまう。退役後は故郷の富山に戻り、米穀取引所の支配人を務めた。よって、二男・富雄は小学校時代から富山で過ごすこととなる。富雄が中学一年のとき、その父親が事故で早世する。一家は恩給に頼り、居も改めて慎ましく暮らすが、そんななか富雄少年は次第に映画に夢中になってゆく。
 旧制富山高等学校時代にそれは形となる。映画研究会を設立し、機関誌『モンタージュ』を発行。数々の研究論文とともに、なんと後年日活京都で映画化される『仇討交響楽』の原案シナリオまでも発表している。『モンタージュ』発行は富雄二年生の昭和七年、『仇討交響楽』の映画化は監督昇進後の昭和十五年、なんと早熟な映画少年であったことか。そしてこの頃から、「丸根賛太郎」の名前を使いはじめる。その語源はマルレーネ・デイートリッヒ、マルセル・カルネと、阿部次郎の『三太郎の日記』であるといわれている。
 富雄少年の映画狂いは紙の上にとどまらなかった。友人のツテを頼り、日活京都の助監督だった菅沼完二ともこの頃に知り合う。この菅沼との出会いが、富雄の人生を大きく決定づける。昭和十年、京都帝国大学入学と同時に菅沼の家に転がり込み、二人で毎日撮影所に通った。菅沼曰く丸根は「恐らく大学の教室へなど行ったことはなかったと思う」―そして翌十一年夏、大学を中退し日活京都に正式入社、助監督となる。映画研究会設立からわずかに四年後、富雄、いや「丸根賛太郎」若干二十二歳のことである。このとき、富山から母親を呼び京都に居を構える親思いの一面もみせた。

 丸根賛太郎監督昇進は二十四歳。なんともスピーディーな展開だが、このデビュー作『春秋一刀流』(昭和十四年)がいきなりの傑作であった。冒頭はのどかな―白黒作品だが、十分にカラーを感じさせる―青空である。そこに字幕―「この良い天気に雨が降る」。おや?と思うと次の字幕―「血の雨が降る!」。そして合戦のごときやくざの大喧嘩シーン。青年監督の第一作の冒頭が、いきなりこれである。
 『春秋…』はトーキー作品で、デビュー作からトーキーを撮った丸根は、生涯サイレント作品を作ることはなかった。しかしこの作品や、後述する『天狗飛脚』などで見られるトーキーの中で字幕を極めて効果的に使う手法は、丸根作品にほとばしるような躍動感を与える重要なファクターであった。
 原作、脚本、監督の三役を務めたこの作品に、丸根が映画に対して抱く思いの丈が込められている。驚くほど大胆な映像展開、シニカルさとユーモアの共存、そして時代劇に姿を借りた市井の人々の怒りと無情感である。
 きわめてユニークな導入部は前述の通り。実はその大喧嘩シーンも、チャンチャンバラバラがメインではなく、片岡千恵蔵演ずる主人公の平手御酒、そして原健作の只木厳流が物語の中心で、彼等は両陣営の用心棒であるにもかかわらず、刀を地に刺し「あんなに熱心には働けん」と傍観、しまいには共に姿をくらましてしまう。ここで観客はドッとうける。前述したいくつかの特徴は全編にわたり、これまたアッと驚く斬新な、かつ無情なラストシーンで幕を閉じる。

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 戦前、戦中に十五本を撮り、敗戦の昭和二十年に代表作『狐の呉れた赤ん坊』を発表。チャップリンの『キッド』をヒントにした、大井川の川越人足(阪東妻三郎)と殿様のご落胤(澤村アキヒコ。のちの津川雅彦)の人情噺は、敗戦で荒んだ人々の心を見事に掴んだ。私はこの作品をたまたま映画の地元・静岡の上映会で観たが、「空襲で映画館が全て焼けてしまったので、市役所の大広間で上映された。終戦後に静岡で初めて公開された新作映画で、溢れんばかりの人が観た」という話を聴いた。
 この映画、戦時中に企画が立てられ、戦中・戦後を跨いで製作された。公開時は占領軍の検閲が必要となったが、時代劇なのでなかなか許可が降りない。そこで丸根は自ら軍令部に乗り込み、「きわめて人道的な作品である」と力説。二十年十一月に占領軍許可第一号作品として公開されたいきさつもある。

 さて、この『狐の呉れた赤ん坊』や『春秋一刀流』、『月の出の決闘』(昭和二十二年・阪妻主演)などが話題になることの多い丸根だが、今こそ注目すべき傑作がまだまだある。
 例えば昭和二十四年の『天狗飛脚』。一言でいえば、現代ハリウッド流の”カーチェイス”を人間の足でやってしまった怪作である。

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 市川右太衛門演ずる快足の飛脚”天狗の長太”が、自らの濡れ衣晴らしと、真犯人である盗賊・源七の捕獲、そして店の再建のため大阪に嫁がされてしまう飛脚屋の娘、愛するおしゅんのために東海道を韋駄天走り。クライマックスとなる長太、源七のデッドヒート・シーンでは、そのアングル、編集のユニークさから観客席は熱狂、爆笑の渦と化す。ここでもサイレントを思わせる「大阪まで、五里!」「大阪まで、一里!」「大阪、寸前!」という字幕―今風にいえばカウント・ダウン―が観客の眼を、心を鷲掴みにする。あまり詳しい内容には触れないが、なんと右太衛門は空まで飛んでしまうのだ。そして終映後は嵐のような拍手喝采。私も初めて観た時に、「こんなに面白い映画があったのか!」としばし放心してしまったほどである。
 丸根の卓越した文章術、言語感覚については後述するが、この『天狗飛脚』にも絶妙の台詞が散りばめられており、そこでも観客は狂喜する。特に東海道を先に出発したおしゅんの籠に、韋駄天の長太が追いついてしまい(この演出がそもそも可笑しい)、追い抜きざまのひとこと「待ってろよぉ~」が最高である。この作品における奔放な演出とわかりやすいユーモアは、後年「まるねさんたろう」名義で撮った実写版『鉄人28号』(昭和三十五年・NTV)を予見させるものがあった。

 そして丸根の魅力を存分に味わわせてくれる珠玉の逸品が『極楽剣法』(前篇・地獄剣の挑戦、後編・月明の対決。共に昭和三十一年)である。木曽の山奥から江戸に出た”極楽剣”の使い手、雲母飄介(明智十三郎)はその道中、大名の供侍・孫兵衛や女スリ・お銀、さらには道場主の一刀斎、その娘・雪江に惚れ込まれ、ひとり旅のはずが「一族郎党引き連れて」となってしまう。これはほんの導入部なのだが、ここだけで飄介がいかに誠実かつ魅力的な人物なのかが観客にも伝わり、あっという間に物語に取り込まれる。江戸で身を寄せた道場の主、由比正雪は飄介に瓜二つで(明智二役)、腹心・半兵衛から「影武者に!」と請われる。飄介はそれを断り、件の一族と長屋に移って気楽な暮らしを始めるが、そこは天下無敵の極楽剣使い、世間はそうはさせない。

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 正雪に似ていることから起こる”地獄剣”使い高左近之助との対決に、松平伊豆守の策略も絡み、飄介は狙われたり、栄達を請われたり。しかし彼はまったくのノンシャランで、殺し合いにも出世にもおよそ興味がない。後編の最後は剣客三十人を倒された伊豆守が、飄介の本当の強さを知り、逆に「召し使えよ!」と騎馬隊を放つ。ところが飄介はそれをかわし、気楽な旅に出てしまう。そこにまた孫兵衛やお銀、雪江が付いて来て、飄介またしても呆れる、という結末である。
 前後編二本、かなりの長い時間を経て冒頭に戻るかのごとき演出に、観客は感無量となる。前述の『天狗飛脚』がパンチの効いたコメディだとすると、こちらの『極楽剣法』は奥の深い人間喜劇。頭のてっぺんから爪先までが幸福感という液体によって満たされる、まさに極楽のような逸品である。
 この作品、演出とともに脚本(中村純一と丸根の共作)も振るっている。全編を通じて要となるのが、「都合」という言葉である。影武者になって欲しいという正雪、半兵衛の「都合」、栄達のため正雪(のつもりで立ち向かったが実は飄介)を斬るという左近之助の「都合」、ある時は狙い、ある時は召し使えようとする伊豆守の「都合」、そしていつまでも付いてくる孫兵衛やお銀の「都合」。飄介のまわりはさまざまな人々の「都合」で溢れているのだが、対照的に飄介は「おぬしもまた『都合』か。拙者はその都合とやらが全く解せない」と呆れる。明智十三郎の好演もあり、この「都合」のシーンが出るたびに、観客席からは大きな笑いがもれる。
 この物語のなかに、権力者や悪党と無欲な市井人との関係を道徳的に見出すことも可能だが、そう政治的なものではなく、私はむしろ飄介を通して徹底的なまでにナチュラルな人間の姿を描ききることを目的としたのではないかと考えている。人間喜劇といったのはその理由からである。

(地の巻に続く)

第31回-幻の(?)韓国映画『GO GO 70s』-その2

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1972年、軍事政権が支配し夜間外出禁止令が布かれていた韓国に、深夜0時から早朝4時まで、ゴーゴークラブ内でオーティス・レディングやアイザック・ヘイズ、ウィルソン・ピケットを、「ソウルマン」や「ムスタング・サリー」、そして「ダンス天国」や「I've Been Loving You Too Long-恋をしすぎた」を一晩中、狂ったように演奏していたソウル・バンド"デビルズ"がいた…というセミ・ドキュメント映画『고고70』('08年・チェ・ホ監督)ご紹介の2回目。今回は実話部分と演出について、最小限の範囲で触れる。

いま敢えて「最小限の範囲で」と書いたのは、やはり題材が題材ゆえ、登場人物にデリケートな背景があり、監督のチェ・ホ自身が「(デビルズのスポンサーでありながら最終的には政府側に就いてロック粛清を行う)イ・ビョンウクにはモデルがいると聞きましたが、実際にモデルの人自身も禁止曲選定を強いられたのですか?」という問いに、「デリケートな部分で、モデルの方は音楽界で有名な方でお名前は伏せさせてもらいます」と答えているためである。

とはいえ…現地韓国のネット上では、このあたりの人脈はすべて明らかになっている(さすがのお国柄?)。イ・ビョンウクのモデルは、ゴーゴークラブ"ニルヴァーナ"のプロデューサーで、米国ビルボード誌の韓国特派員も務め、'80年代に人気を博した音楽雑誌『音楽世界』(음악세계)のライターでもあったソ・ビョンフ氏だ。
ソ氏はいまやラップ・グループ"ドランケンタイガー"のMC、タイガーJKの父親として知られており、実はその母親が劇中で「大邱からバンドを追いかけて出てきたダンサー」、ミミ(シン・ミナ)のモデルとなった女性だそうだ。

このあたりはちょっと複雑である。つまりデビルズは実在、そのスポンサーであった音楽評論家のイ・ビョンウクも実在、そしてデビルズをヒットに導いたダンサーの"ミミ"も実在ではあったが、別に大邱から出てきたリーダーの恋人というわけではなく、実在のソ・ビョンフ氏がソウルで結成したダンスチーム、"ワイルドキャッツ"のリーダー、ヨ・ソンヌン嬢がモデルである。「デビルズと一緒にダンスを披露したこともあったかもしれないが、映画のように"専属ダンスチーム"であったわけではなく、またのちにソ・ビョンフ氏の妻となり、タイガーJKの母となるわけなので、その人間関係は推して知るべし」ということだ。まぁ、このあたりは純粋に「劇映画」と考えた方が良いだろう。

実は本作の製作にあたり、ソ・ビョンフ氏から「事実を歪曲している」という抗議があったそうだ。ソ氏が最もナーヴァスになるところは、当然、「最終的には政府側に就いてロック粛清に手を貸す」ところだろう。これについては監督のチェ・ホは「彼は禁止曲を選び軍事政権に協力したのですが、当時としてはそうするしかなかった」と語っている。これについては、如何ともしがたい残念な史実、ということになるだろうか…。

但し、映画の中ではソ氏にあたる人物イ・ビョンウクが、禁止曲選定に手を貸したのちに、公務員証を振りかざしながら軍部に毅然と歯向かうシーンがあり、ソ氏の置かれた微妙な立場-完全な「板挟み」になり震えながら歯ぎしりをする-を表しながら、その功績を讃え名誉を傷つけない巧妙なシナリオになっていた。ここは脚本家のキム・スギョンの巧さで、実に見応えがあった(こういうホンや演出が日本映画でも観たいとも思った…)。

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しかし韓国の熱心なロック研究家(私のような人物が韓国にもいるのだ!)からすると、'70年代初頭に長髪取り締まり、退廃文化取り締まりがあったことは事実だが、それによって劇中にあったようにロッック・ミュージシャンたちが収監されて拷問を受けるのはむしろ'74、'75年頃の大麻事件での処罰を思わせるものであるそうだ。ここは演出的に数年分をまとめてしまったか。
ちなみに数百曲が一気に「禁止歌」とされた朴正煕政権下の「緊急措置9号」は事実で、'75年6月のことだった。ここで前出のソ氏が絡んで来るわけだが、確かにいまとなっては語りたくないことだろう。

劇中でデビルズから分裂したメンバーが出演した清涼里の「大王ホテル」は実在の名称だそうだが、演奏中の爆発火災事故から数十名の観客と供に死亡するのが事実かどうかはわからなかった。

後半部、結末についてはどうだろう。チェ監督は「麻薬取り締まりを名目に拘束された後で、みんなが銭湯にいるシーンまでが現実です。(独裁政権の圧力でバンドは音楽活動ができなくなり)誰々は日本に出稼ぎに行った。誰々は音楽を辞めたというのが事実に基づいていることです」と語り-ここにその全編の結末を書くことははばかられるが-"催涙弾に打ち勝った"感動的な一夜はあくまで映画的な創作であると明言している。

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とりあえずここまでにしよう。ライバル・バンドだった"フェニックス"も実在のバンドであるとか、デビルズのリーダーは本当に兵役忌避者だったとか、調べれば調べるほど興味深い「大韓ロック」の一頁が現れるが、それはこれからの長い楽しみにしようと思う。チェ監督と、脚本家のキム・スギョンが参考にした『韓国ポップスの考古学』の邦訳が出ていないのが実に残念である。ハングル検定5級という私の韓国語力では、原本を読むには何年かかるやら…。

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