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第33回-失われし巨匠・丸根賛太郎 地の巻

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前回に続き、「丸根賛太郎」というあまり有名ではない映画監督ご紹介の2回目。私が世界で最も愛する映画監督ですが、本稿「地の巻」では色々と、辛い現実も出てきます。

文章は9年前の2004年に筑摩書房の「国語通信」という国語教員向けのネット上の電子ブックに掲載されたもので、加筆、修正はせず文中の時間関係、執筆後の物故者などはすべて2004年当時のままとしました。少し長く、また国語教員向けで文章も堅いいですが、ご一読頂ければ幸いです。

(写真は昭和20年製作の丸根代表作『狐の呉れた赤ん坊』から阪東妻三郎、澤村マサヒコ(津川雅彦) )

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 はたしてこの丸根賛太郎、いかなる考えのもとに映画を創っていたのだろうか。丸根を論ずる文章は―荷村寛夫氏による丸根賛太郎論以外には残念なことに―皆無だが、当の丸根自身による映画評、映画論がなかりの分量で残されており、我々はそこから彼の思考を酌み取ることが出来る。

 まず驚くのがこれほどまでに時代劇にこだわりつづけ、「時代劇を撮るために映画会社各社を渡り歩いた」とまでいわれる丸根の根底にあったのが、熱狂的なヨーロッパ映画、ヨーロッパ文化への傾倒だったということである。昭和二十一年に書かれたG・W・パブスト(一八八五―一九六七)、ルネ・クレール(一八九八―一九八一)などを評した文章(「戦争と映画と作家―をめぐっての断片的評論」)を読んだが、第一次大戦と第二次大戦、往時のヨーロッパと当時の日本、そしてその中での映画監督のありかたを見事なまでに論じ、「これが本当にチャンバラ監督の文章なのか」と感嘆を超え、唖然としてしまう。

 この文章や、その五年後、昭和二十六年に書かれた「民主主義下に時代劇(まげもの)映画は生きるか」などを読むと、映画に対する彼の姿勢が浮かび上がって来る。
 まず前者で丸根はクレールの物語の根底に「戦争や暴力によって掻き乱されることのない小市民社会への憧れ」「この善良な人々をいつまでも平和の中においてきたいという悲願」があると語り、ナチス台頭後に撮られた作品については「愛すべき小市民社会に脅威するものに対しては、彼の武器(アヴァンガルド時代に身につけた反逆的意識と素晴らしい表現技術と生まれながらの機智)を以て闘う」と結論づける。

 さらに後半でアメリカ映画にも言及。チャップリンの『独裁者』を例に、映画におけるヒューマニズムのありかたについて語っている。曰く「勢怒濤の如く押し寄せてくるファッシズムの攻勢に対して、アメリカ映画は、ヒューマニズムを武器として堂々と立ち向かった」と。ここで面白いのは丸根は戦前のアメリカ映画にあったヒューマニズム、彼曰く「甘い人道主義」には違和感を覚えており、「ヒューマニズムとは人間を愛する精神(こころ)という平凡な意味である」と断言。ファッシズムやミリタリズムとは相容れない、人を愛するための人間性(人格)の尊重、さらにそのために必要となる礼儀や教養、教育や文化こそが重要と語っている。あいだに挟まれた「極めて平凡なことに、しばしば、大変立派なことが含まれている」という一文が興味深い。『狐の呉れた赤ん坊』の人足とご落胤に観る小市民と権力者の関係はもちろん、『極楽剣法』の飄介がどこまでも平凡であろうとした姿勢は、こうした洗練された確固たるヒューマニズムの表出とはいえまいか。

 そして後者で丸根は「表面的には単なる『娯楽品』としてつくられた作品でも、実際は当時の現実と切り離すことの出来ぬ切実なつながりをもつ」と語り、伊藤大輔監督、大河内伝次郎主演の丹下左膳作品『新版・大岡政談』(昭和三年・日活京都)を挙げ、原作では殺陣人形にすぎなかった丹下左膳が、伊藤大輔の脚色と演出により「封建イデオロギーに対する反逆的精神をふきこまれ、青白いニヒリズムの焔をあげながら咆哮突進するところに、やり場のない鬱憤でもやもやしていた民衆の共鳴共感を忽ちにしてよびおこした」と分析している。昭和三年といえば世界恐慌の前夜、農村は窮乏し、街には失業者が溢れ、張作霖の爆死や共産党の大検挙などキナ臭い事件も数々起きていた。丸根はこうした事象にも触れ、そこで公開された丹下左膳に熱狂する観客の様子から、かの作品には「ただ単に『受けた』『アタッた』とかでは済まされぬなにかがあった」といっている。「時代劇が現代劇にまして進歩的な積極的な意義をもった時期すらある」―これが丸根の時代劇に対する根本である。

 こうした精神が、丸根の映画を支えた。山中貞雄の時代劇作品は「髷を結った現代劇」といわれたが、さしずめ丸根は「髷を結った欧風喜劇」というところか。伊藤大輔の作品で知った「ただ単に『受けた』『アタッた』とかでは済まされぬなにか」を狙った演出は見事に観客を熱狂させた。

 丸根の文章はまだまだ残っており、なかには軽く綴られたエッセイの類もある。そしてこれが絶品なのだ。まず言葉の選択が素晴らしい。文章から溢れ出んばかりのユーモア、絶妙のテンポ。昭和二十年代初頭のものだというのに、今読んでも吹き出してしまうほどである。丸根の人柄を知るものであると同時に、優れた脚本家であった丸根の文章術を知る貴重な資料でもある。ともかく面白い人なのだ。前段で詳説した映画に対する真摯な姿勢を心に秘め、そして同時に徹底的なユーモア精神も有し…「こんな人物の撮った映画、面白いに決まっている!」とまで思えてくる。

 希代の名監督―という文章になってきたが、冒頭で記した通り、それにしては世評が少なすぎる。丸根に関する数少ない文章をあたると、「昭和三十四年を最期に映画界を去り、テレビの脚本家に転じ、来栖重兵衛、宮元重、韮三哲などのペンネームで『我も剣豪なりせば』『乞食大将』などを記した」などと記されている。これは真実半分、不明半分である。来栖重兵衛などのペンネームは主に戦前の日活京都時代に使っていたもので、『我も剣豪なりせば』も『乞食大将』も本名の丸根賛太郎でクレジットされている。そして『我も…』は昭和三十六年(フジテレビ)、『乞食大将』は同三十八年(NHK)、丸根はそれぞれ四十七、四十九歳であった。つまり「昭和三十四年を最期に映画界を去り…」のような文章から、恵まれた、悠々自適の晩年を想像しがちだが、果たして本当にそうだったのかという疑問が沸き上がるのだ。

 史実を整理するとこうなる。最後の本編監督は昭和三十四年の『高丸菊丸・疾風編』(歌舞伎座映画)、時に丸根は四十五歳である。最後の映画脚本は二年後の昭和三十六年に書かれた『無法者の虎』(深田金之助監督・ニュー東映)。このあと前述したテレビ脚本に専念することになるがそれも現在確認出来るのがハナ肇が主演したNTV版『狐がくれた赤ん坊』のリライトが最後で、昭和三十九年のことである。丸根わずか五十歳。逝去まで三十年の記録がごっそりと抜けている。「山中貞雄の再来」とまで謳われた、天才映画監督の三十年が、どこにも残っていないのである。

 ここにふたつの無念さがある。ひとつはたった今述べた、天才監督の記録が失われているということ。そしてもうひとつは、昭和四十年代の丸根が、非常に不安定な状態にあったのかもしれないということだ。
 丸根の没後に採られた夫人、赤祖父睦子のインタビューに気になる一説がある。「睡眠薬が死ぬまで尾を引いていて、死ぬ十年くらい前まで昼間も飲んでいた」「一日中、朦朧としていた」「なにかをやる意欲までなくなっていた」。
 晩年の丸根に関する数少ない情報を繋ぎ合わせると、いくつかの不運が重なっていたように思える。実は丸根は堅人というわけではなく、ヒロポン常用者としても知られていた。それは映画会社のプロデューサーから注意され止めた。ところが入れ代わりにキャメラマン某氏(実は特定しているがここには記さない)に勧められた睡眠薬にハマり、慢性的な中毒に陥る。それは昭和三十年頃の話で、同年の『幻術影法師』撮影中に意識が朦朧とし助監督が演出を代行したという逸話も残っている。前述した夫人のインタビューと合わせると、昭和三十年頃から六十年頃までの実に三十年間、睡眠薬から離れられなかった丸根の姿が浮かんでくる。

 プロダクション構想に失敗したという痛手もあった。作品記録は見つけられなかったが、昭和四十年代はやはりテレビ脚本を書いていたようで、東京に事務所も開いていたそうである。前出の荷村氏によれば、テレビ脚本の数は百本を上回るそうだ。そこを拠点に何度も自らのプロダクションを作ろうとしたが、後援者の遁逃などもあり結局実現しなかった。さまざまないきさつから自ら選択した数回に及ぶ映画会社の移籍が、いずれも裏目に出ていた丸根にとって、このプロダクション構想の失敗は致命的であった。
 この時期、交通事故で病臥を強いられ、二年間を棒に振るというアクシデントもあった。その事故に遭ったのが、フジテレビの局舎前だったというのが皮肉に思える。不運は重なる。
 東京の事務所が潰れ、気落ちしたあまりに潰瘍になり、そして夫人曰く「最後のプロダクション構想が壊れてからは何もしなくなった」。正確な時代はわからないが、仮に昭和五十年のこととしても、まだ丸根は六十歳にすぎないのである。嗚呼。

 では虚無な晩年を送ったかというとそうではないようだ。東映京都の録音技師、渡辺章は京都での特集上映に招かれた丸根の様子を「にこにこにこにこ笑ってる。ええ人でね」と語っている。晩年の丸根を語った数少ない証言のひとつである。また晩年の丸根自身による『赤旗』への寄稿も残っている。『狐の呉れた赤ん坊』の原作者クレジットに関する背景説明が主だが、その文末で三隅研次監督による大映リメイク版で、侍に対する庶民の意地を表す台詞と、父子の離別シーンがカットされていることに強く疑問を呈している。この寄稿が現在確認出来る丸根の最後のマスコミ露出であるが…実は昭和四十六年。丸根五十七歳のときのことなのだ。まだ、若い。

 こう考えよう。昭和三十年代の半ば、年齢にして四十代中盤で映画から、テレビに転ずるが、それも―夫人曰く「あまり意欲的ではなく」―十数年間、五十歳代までのこと。狙っていたのは映画のための自らのプロダクション設立だったが、結局実現しなかった。その痛手と、若干の薬物の影響もあり、六十、七十歳代は目立った活動は行っていなかった。しかし映画に対する意識は依然として高く、リメイクに苦言を呈し、また上映会に招かれれば好々爺の側面もみせた。
 この時期の姿が我々の眼前から、ごっそりと抜けているのである。もしかしたら、斬新な時代劇監督として、再び本編に返り咲くかもしれなかった数十年という期間が。そしてその数十年、いわば「断層」のような時間が、丸根賛太郎という監督の記憶を人々から遠ざけてしまった。本稿のタイトルを「失われし巨匠」としたのはこうした理由である。
 没年は平成六年、享年八十歳が定説だが、一部で平成七年とする記述もある。なぜこれほどまでの監督の没年が二説にわかれてしまうのだろう。

 「戦前・戦後の時代劇監督」という代名詞から、その世代を見失いがちだが、実は丸根は市川崑監督のわずか一歳年上でしかない。市川が一九七〇年代に横溝正史シリーズ作品を数々発表、八〇、九〇年代もコンスタントに撮り続け、二〇〇〇年以降毎年一本のペースで新作を生み続けていることを考えると、丸根の遺作が五九年公開、実に四十五年も前の作品であることが残念でならない。黒澤明よりも四歳年下。同齢の俳優・松村達夫や作曲家・伊福部昭は現在でも現役。丸根はまったく「過去の世代」というわけではないのだ。
 前出の荷村氏は、丸根の特異な芸術的特性が「日中事変から太平洋戦争、徹底的な惨敗による戦後の虚脱時代」にこそ輝くものだったと考え、昭和二十五年以降をスランプ期であったとしている。冒頭に記した時代劇映画に対する丸根の考え方からすれば、確かにそうした側面もあっただろう。しかし、戦後の復興期、高度成長期、そして現代において、丸根時代劇と彼の演出術は、全く時代にそぐわないものとなり果てたのか。

 私はそうは思わない。丸根のシャシンは今現在でも、眩いばかりの閃光を放っている。奔放な演出術は、むしろ今こそ注目されるべきとも思える。戦後のある時期、丸根と映画界の間にごくわずかな「行き違い」が生じてしまった。契約面、健康面、斬新すぎる演出等々。それはすぐにでも修復されるべきものであったのだが、なぜが次第に深く大きな溝となり、結果として丸根は映画界と袂を分かつことになった。私はいくつかの不運が重なっただけであると考えている。その意味では、丸根の特異な才能を蘇らせる先進的なプロデューサーが出現しなかったことが悔やまれる。ともかく作品は、完璧である。

 不運な期間のために、黒澤や市川崑ほどには知られていない丸根だが、その監督作は実に五十八本。見事なフィルモグラフィを有する。オリジナル脚本の代表作『狐の呉れた赤ん坊』は映画史に残る傑作。その他、前述の通りの数々の秀作、佳作から抱腹絶倒の珍作もある。
 そう、ここにこそ映画ファン、映画評論家としてとるべき態度があるのではないか。丸根を観よ、丸根を讃えよ。スクリーンの上にその人を蘇らせよ。そして、なによりも快作の数々を徹底的に―腹の皮がよじれるほど―享受せよ。丸根賛太郎はそれに値する、数すくない映画監督のひとりである。
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